みなさん、こんにちは! B-CHANです。 現在、日本にはプロ野球チームがたくさんあります。 この記事を書いている2014年5月現在で30チーム近く存在します。 有名なのは日本野球機構(NPB)に属するセントラル・リーグとパシフィック・リーグの12チームですが、他に、四国アイランドリーグplusやベースボール・チャレンジ・リーグなど、いくつかのプロ野球組織が存在します。 今回は、その中で、セ・リーグとパ・リーグ … プロ野球寮の食事,部屋,間取り,門限,設備,費用について紹介!! また、ホームランの功績は言うまでもないが、打撃によっては4割も可能という定評は現役時代からあった[145]。, また、四球数も非常に多かったことから出塁率も非常に高く、通算出塁率.446及び1974年に記録したシーズン出塁率.532は現在も破られていない。2リーグ制以降でこの記録に最も近づいた記録は落合博満が1986年に記録した.487であり、実に.045の大差をもつけている。また、2リーグ制以降のシーズン出塁率では1位 - 5位までを王が独占しており、ベスト10でも7個ランクインしている。, メジャーリーグで広く普及している総合打撃指標であるOPS(出塁率+長打率)では1.080 (.446 + .634) という数字を残している。OPSが10割を超える選手は数少ない。日本プロ野球界で2000打数以上の選手でOPSが10割を超える打者は王、ランディ・バース (1.078)、ロベルト・ペタジーニ (1.051) の3人のみである。4000打数以上の選手の中では王のみである(2位は松井秀喜の0.996)。またシーズン記録でも日本プロ野球史上で10度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。, OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。傑出度を示すRCWINのシーズン記録でも1位から9位までを王が独占している(10位は1986年のバース)。打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、年度別打撃成績参照。213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。, 通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけて堂々の1位。王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(現在はバリー・ボンズが更新)。, シーズン四球数は歴代1位から4位(130個、2018年の丸佳浩とタイ)まで独占、歴代6位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び単独7位から12位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代10傑のうち8、20傑のうち延べ13を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(連続打席四球歴代5位)。なお、シーズン四球記録を達成した1974年は現在より13試合少ない130試合制での記録あり、現行の143試合制に換算すると174個となる。, さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。イニング別では1回が一番多い。シーズン敬遠数も歴代1位から3位までを独占している。なお、満塁で敬遠されたことはない。, 四死球が非常に多かったため、通算打席数11866はセ・リーグ記録だが、通算打数9260は衣笠祥雄(通算9404打数)に次いでセ・リーグ2位となっている。, 王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。一塁手としての9年連続受賞は現在も歴代1位。一塁手としての9回の受賞も1999年に駒田徳広に抜かれるまで1位だった。現在は駒田に次いで歴代2位(2018年度シーズン終了時点)。, 長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。特にバント処理に関しては他球団からも警戒されており、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ただし、現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数165も歴代1位である。一塁手として通算2799試合・27743守備機会・25893刺殺・1685補殺・2317併殺を残しており、通算守備記録においても他の一塁手を圧倒している(すべて一塁手プロ野球歴代1位)。, ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の対大洋ホエールズ戦と、アーロンの記録を塗り替えた9月3日の対ヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。, 2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)ともに野村克也と並ぶタイ記録である(選手としての最多選出回数は野村の22回)。, また、直接の出演ではないが、日清食品のカップヌードルのCMに、自身の756号本塁打の映像が使われたことがあり、CM中では乱入した永瀬正敏と「共演」している。, 以上の2曲はともに作詞は阿久悠である。阿久によると、「サウスポー」については後に王本人から「僕の歌ありがとう」と言われたとのこと。, 1996年(平成8年):渥美清1998年(平成10年):吉田正1998年(平成10年):黒澤明2000年(平成12年):高橋尚子2009年(平成21年):遠藤実2009年(平成21年):森光子2009年(平成21年):森繁久彌2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表2012年(平成24年):吉田沙保里, 現役時代、独学でピアノを学び、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた, 王が引退した1980年において、メジャーリーグ26球団の本拠地球場の多くは両翼が100mを超えており、両翼が100m以下の球場も左右中間は115m以上あるなど充分な外野の広さを持っていた。これに対し、後楽園球場は両翼が実測87.8m(約288.1ft)、左右中間110.1m(約361.1ft)と狭く、他のセ・リーグの球場もほぼ同様の広さであった。, 当初は助監督の3年間で退任して巨人を去るつもりであったが、球団の要請により、監督に登用されて引き受けることとなった。, 戦後から2015年まで(水原監督から第二次原監督まで)でBクラス経験が一度もない巨人軍監督は、水原と王の2人だけである。, 長嶋自身、周囲への助言を求めている自分と、そうでもない王の対比を意識しており、その違いは「ワンちゃんは荒川さん直々の打法があったが、自分はそもそも師匠がおらず、直伝された技術がなかった。だから自分から周囲に教えを乞うしかなかった。」と述べている(「巨人V9 50年目の真実」より), 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「坊や、何で右で打っているの?」と書いている。, 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい。」と言っている。, 荒川はその時の王の印象を後に「なんて素直な少年なんだと思った。普通は大事な試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。, 当時の巨人でのシーズン最多本塁打は青田の32本であり、簡単に30本以上が出るとは思っていなかった。, この日は日曜日で、当時日曜日はダブルヘッダーとすることが多く、第1試合は薄暮ゲームで午後4時半から開始することが多かった。, 『王選手コーチ日誌 1962-1969 ~一本足打法誕生の極意~』108-109P参照, 『王選手コーチ日誌 1962-1969 ~一本足打法誕生の極意~』114-115P参照, ベースボール・マガジン社「東京ヤクルトスワローズ40年史 1969-2009 ツバメの記憶」43ページ, 読売新聞1978年8月31日1面「王、栄光の800号」読売新聞縮刷版1978年8月p1017, 読売新聞1979年9月23日17面「王38号、史上初の2000打点 だが巨人、中日に不覚」読売新聞縮刷版1978年9月p839, 読売新聞1979年9月13日17面「王"健在"代打初アーチ」読売新聞縮刷版1979年9月p469, 読売新聞1980年4月6日16面「王、千号にも晴れず」読売新聞縮刷版1980年4月p206, 読売新聞1980年6月13日17面「王850号、金字塔また高く 金田(広島)から豪快ライナーで」読売新聞縮刷版1980年6月p491, 読売新聞1980年10月13日17面「王、19年連続の30号」読売新聞縮刷版1980年10月p485, 読売新聞1980年10月13日17面「SBO ボールが見えた!苦しみの末、感触戻し」読売新聞縮刷版1980年10月p485, 読売新聞1980年10月23日17面「"藤田巨人"早くも始動 中村(一軍ピッチング) 国松(二軍監督)氏入閣へ」読売新聞縮刷版1980年10月p901, 読売新聞1980年10月26日17面「王『助監督』を快諾」読売新聞縮刷版1980年10月p1038, 読売新聞1980年10月23日17面「"来年も現役で"王、重ねて強調」読売新聞縮刷版1980年10月p901, 「悲劇の礎あっての巨塔 東京大空襲被災 王さんの願い」 東京新聞 TOKYO Web 2011年3月10日, 「"最強の阪神"を粉砕した陰の男 吉田増蔵の伝説をたずねて」文藝春秋 Number129 86頁参照, ただし、NPB公式の出塁率のシーズン記録は1986年落合博満(ロッテ)の.487である(両リーグで最高出塁率を表彰開始した1985年以降が対象であるため)。, プロ野球 名選手列伝 驚きの記録を残したツワモノたち。著者・吉野秀。2008年6月15日。33頁・34頁。, http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2568605/3757511, 台湾週報:一覧:トップページへ > 台灣週報 > 台湾週報 > 馬英九総統が王貞治氏に「二等景星勲章」を授与, http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090924/lcl0909241241001-n1.htm, 福岡市ホームページ:HOME > 市政情報 > 市政の概要・市のプロフィール > 王 貞治 氏 (平成16年12月17日選定), http://kyushu.yomiuri.co.jp/sports/baseball/hawks/20090809-OYS1T00346.htm, 王会長の母、108歳大往生「息子として誇り」― スポニチ Sponichi Annex 野球, 【 神回 】夢の対談がまさか実現するとは!! 広島のバティスタ復帰説が出回っていますが、結局バティスタのドーピングって意図的だったんですか?調べたのですが正式にでてないですよね?「信じてくれー」とかいうのは見ましたが。いつわかるとかあるんですかね?, 巨人の補強について 王 貞治(おう さだはる、中国語 拼音:Wáng Zhēnzhì〈ワン・チェンジー〉、1940年(昭和15年)5月20日 - )は、東京府 東京市 本所区(現・墨田区)生まれ、中華民国籍の日本の元プロ野球選手・監督。 血液型はO型。愛称は「世界の王」「ワンちゃん」。. 「あの動画のことで」というような会話がありましたが、何の動画のことですか?炎上したのですか?, 名探偵コナンの1066話をネタバレした人が印刷会社や流通業者だとしたらなんでそんな酷いことをするんですか?その人たちはどんな目的で早バレを?お金のため?それとも青山君が嫌いだから?, fireスティックTVでプライムビデオを見ようと思ったら全て英語表記になっていました。fireスティックTV自体は日本語なのですが、プライムビデオのアプリを起動するとこのように英語表記になってしまいます。解決策などありますでしょうか? そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、みている自分たちまで叱られているような気がしてきて、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」と語っている。, 南海時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。その時、野村は「ああ…、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後、野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」「あれだけ練習した王だから、世界記録を作っても不思議ではない」と記している。更に「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。, この年本塁打38本・打点85で初めて本塁打王と打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で本塁打822本を記録した。1977年の梶原一騎との対談[59] では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退」という趣旨の発言をしている。, 前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた一人である。「隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。, 後にこの打法で本塁打記録が達成され、アメリカのメディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶ者がおり、これに由来するものである[60]。, 翌年1963年、シーズンの最初から一本足打法で打ちまくり、長嶋とのコンビが「ON砲」と呼ばれ始め、この巨人の二枚看板の大活躍でこのシーズンは2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズの優勝を果たした。王はこの年初めて打率3割・本塁打40本を記録し、2年連続で本塁打王を獲得した。なお、4月25日の阪神戦で史上23人目のサイクル安打を達成しているが、当時サイクル安打の概念は知られていなかった(日本でサイクル安打が記録の対象であることが知られるのは、2年後に24人目のサイクル安打を達成した阪急ブレーブスのダリル・スペンサーの発言がきっかけである)。, 1963年のオフから翌1964年のオープン戦の途中まで王は二本足に戻した打法を模索した[61]。2年連続本塁打王を獲得したが、川上は満足しなかった。一本足打法を「アンバランスのバランス」と表現し、如何にも不安定なもので、「二本足ならもっと打率は上る」と王に何度も言った[62]。前年の日本シリーズ第7戦で王は二本足で2ホーマーし、荒川コーチはこれならいけると確信を持った。「荒川ノート」の1964年1月21日の項で「今シーズンから二本足で打たせることにした。」と書いている。1月29日には「二本足打法になってから打撃練習しても気の毒なくらい精彩がない。」とも書いている[63]。キャンプに入ってからもオーソドックスな打ち方で練習し、2月21日に熊本での対西鉄とのオープン戦初戦の初打席でいきなり本塁打を打った。しかし王は首を傾げながらベースを回った。「飛ばないなァ」と感じながら。二本足で本塁打を打っても「普通のフライの大きいやつ」で、一本足で打つと「驚くほど速く異次元のアーチ」だった[64]。二本足でいくか、一本足でいくか悩んだ末に、3月2日の夜に王は荒川コーチに二本足ではどうしても打てないと言い、二人で相談して一本足でいくことに決めた。荒川はこの時に「打つのは王だから王の打ちやすい型で打つのは当然だ」とし理想を追いすぎての失敗としながら「4割打者になるにはどうしても二本足打法を完成させなければいけない」とも考えていた[65]。王は「二本足でしっくりしなかったことで腹が固まった。私には一本足しかない」と思い、川上にもやはり一本足でいきますと伝え、それ以後は川上監督から何も言われなくなったという[66]。, 後年に、この3ヶ月の間に、自分には一本足打法が一番あってることを再確認でき、それがその年の55本塁打につながったと述べている[67]。, 1964年のシーズンは秋の東京オリンピック開催のため、3月20日に開幕となり、巨人は監督の国鉄との開幕戦(後楽園球場)となった。この開幕試合で、王は金田と小雨の中で対決した。5年前の新人時代に金田と開幕戦で対決して以来、開幕戦15打席ヒットがなかったが、23歳、6年目を迎えた王はこの日、通算開幕戦16打席目の3回裏二死で1塁に柴田勲を置いて1ストライク3ボールからの5球目真ん中やや低めの直球をライト場外へ2ラン本塁打(通算116号)を放つ。打球はライトスタンド場外に設置されていたローラースケート場の隣のコーヒーショップの屋根まで飛び、推定飛距離151mとされている[68]。金田からすると本塁打を打たれた球は「見逃せばボール球で、王から三振を奪える絶対的な球」と語っている。守備では初めて開幕投手を任された高橋明が6安打完投して、試合は3対1で巨人が勝利した[68]。, この本塁打は金田を驚嘆させたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり、打たれた球種・コースを投げ続けたが、同年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前から研究をしたが、王は打たれてから研究した」と語っている(別のTV番組では、「ワシはバッターの研究なんてしたことがない。研究したのは王貞治が初めてだったね」と語っている)。この年、王は金田から1試合2本塁打2回を含む7本塁打を奪い、同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録となっている。, 5月3日の対藤本定義率いる阪神タイガース戦(7回戦、後楽園球場)では史上初の1試合4打席連続本塁打を記録した。1回1塁に国松彰を置いて先発の左腕太田紘一からフルカウントで6球目の真ん中高めのカーブを右翼場外の富坂署球場派出所を越えてアイスパレスとローラースケート場の中間に届く約150mの14号2ラン、4回再び太田の初球の真ん中高めの直球を15号ソロ、6回3番手の若生智男から1ストライク2ボールで4球目の真ん中高めのカーブを16号ソロ、さらに7回2塁に柴田を置いて4番手の本間勝から1ストライク2ボールで4球目の外角低めの直球を17号2ラン、すべて130m超級の本塁打で4打数4安打6打点、守りは高橋明投手が完封して9対0で巨人が勝利した。この時点で打点39、打率.405の三冠。手のつけられない打棒対策として、2日後の5月5日広島とのダブルヘッダー第2試合(8回戦、後楽園球場)で白石勝巳監督が7回裏一死の場面で「王シフト(白石シフト)」と呼ばれる守備体系を開始したことで話題になった。「最後の4割打者」テッド・ウィリアムズに対して考案したブードローシフトと同様で、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れて野手の内6人をライト側に守らせたが、王は王シフトにも動じることはなく、その打席でプルヒッティングも流し打ちもせず鵜狩道夫投手が投じたカウント1ストライク2ボールからの4球目内角高めの球をバックスクリーンのわずか右へ18号本塁打(通算133号)を放った。7月19日後楽園球場での対国鉄21回戦では、7回無死1塁に遊撃右への内野安打で出塁した塩原明を置いて(塩原はこの日2本目の安打)、半沢士郎がカウント1ストライクで投じた2球目やや外角寄りの低めの速球をすくい上げると、高さ9mのバックスクリーンを越え、スコアボードとの間のスタンドに届く150m級の37号2ランとなった(通算152号)。後楽園球場のバックスクリーン越えの本塁打は史上初。, 9月6日129試合目の大洋とのダブルヘッダー第1試合(24回戦、川崎球場)で1回の第一打席に鈴木隆投手の1ストライク1ボールからの3球目内角低め膝元に落ちるカーブを52号ソロ、6回の第三打席は交代したばかりの峰国安投手の初球の真ん中高めの直球を逆風の中53号の本塁打を放ち、前年に野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去った。15日後、9試合後の9月21日には広島での28回戦で七森由康が最後の勝利を唯一の完封(被安打は3回にカーブを打った田中尊と三遊間を破った大和田明による2本のみ、広島に3塁踏ませず)で飾ったが、この試合では四回に安仁屋宗八の1ボールでの2球目真ん中高めの直球を坂崎一彦がバックスクリーンへ先制5号ソロ本塁打を放った後、六回一死一塁に中前打の長嶋茂雄を置いて、安仁屋のカウント1-1での内角膝元のスライダーを王が叩くと、打球は逆風をついて右翼フェンスをぎりぎり越えて、53号から37打席ぶりの54号2ランとなった。この日の広島は、王の安打を約15本防いで、王の首位打者(三冠王)獲得を阻止したと評価されている王シフトを解除しており(理由は非公表)、54号の飛球を追った広島の右翼手は小坂佳隆であった。9月23日最終戦の対大洋ダブルヘッダー第2試合(28回戦、後楽園球場)で雨中の5回裏に佐々木吉郎投手からシーズン55号(通算170号)本塁打を24歳で記録した。これは2013年にヤクルトのウラディミール・バレンティンに破られるまで長年プロ野球記録であった。55本塁打のうち24本は飛距離400フィート(約122m)以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。参考に、この年のセ・リーグにおいて第2位の本塁打数はM・クレス(当時は大洋所属)の36本で、両リーグ合わせて第2位の本塁打数は野村克也の41本であり、両者を10本以上も突き放しての数字である。また、55本塁打のうち17本は左投手から奪った本塁打であり、金田からは7本塁打を記録した。, この年、リーグ優勝は阪神で巨人は3位に終わった。しかし、王はシーズン本塁打の新記録達成でリーグMVPに選ばれた。, それまで、王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、しかし「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に、王は一本足打法こそ自身のバッティングスタイルであると確信した[69]。, また、王は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、相手バッテリーが警戒して四球・敬遠が増えた関連で打率が残り始め、1964年は江藤愼一と最後まで首位打者を争い続けた。この年は2度目の打点王も獲得したが、首位打者争いは3厘差で江藤に及ばず、三冠王は逃した。, 翌1965年はシーズン中の怪我の影響で本塁打は42本に減少したが、4年連続の本塁打王、109打点で2年連続3度目の打点王を獲得。打率はシーズン中盤まではトップを走っていたがまたもや江藤に逆転を許し2位だったが、2年連続のリーグMVPに選ばれた。そして巨人は2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズ優勝を飾ったが、この年から1973年まで九連覇を実現する。, 1966年、1967年はともに97試合で40号に到達するハイペースの本塁打量産を見せたが(1985年にランディ・バースがタイ記録を作ったが、現在も40号到達最速記録)、いずれもシーズン終盤にペースが落ち、記録更新には届かなかった。しかも長嶋が1966年のシーズンは絶好調で打率で首位を走り、リーグMVPに選ばれた。一方の王はこのシーズン中盤で落ちてしまった。1967年は打率トップで終盤まできたが、中日の中暁生にまたもや逆転を許してしまった。, 1968年9月17日の対阪神戦(阪神甲子園球場)にて、プロ2年目の江夏豊に稲尾和久と並ぶシーズン353奪三振目を喫する。江夏はそこからわざと8人から三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪って見せた。王はわざと三振を取らずに一巡させたことについては「俺はこれ(眉に唾をつける動作をしながら)だと思う」と懐疑的だが、江夏との対戦については「三振を恐れるようなスイングだけは絶対にしたくなかった。それに中途半端なスイングじゃ江夏の球は打てないしね」と常に全力で対決に臨んだことを証言している。王が最も三振を奪われた投手は最大のライバル江夏からであるが、その江夏が最も本塁打を打たれた打者は王である。そして約250回の対戦で死球は只の1回だけであり、関係者から指摘されるまで、お互いに死球はゼロだと思っていた。王は江夏について「『こいつは絶対に抑えてやる』『こいつから絶対に打ってやる』とお互いに強い意識を持った相手という意味で最高のライバルだったんじゃないかな」と語っている。, 翌9月18日の対阪神戦では、ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーの元に詰め寄った。この時、王は第1打席でバッキーから死球を受けていた。第2打席は三振に倒れていたが、4回バッキーが巨人打線に捕まり、失策や3連打などを浴びており、長嶋も「バッキー、やばいぞ」とささやいてたところで迎えた第3打席、初球が頭付近への危ない投球となり、捕手の辻佳紀に「今度(危険球が)来たらもう我慢できんぞ」と言っていたところに2球目も腰の付近に来たというものであった(ただし、王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、荒川コーチがバッキーと乱闘して2人が退場となった。更に交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤からレフトスタンドに3ランを叩き込み、事実上の報復を果たした。王も頭部陥没骨折の重傷を負っていたが、接骨医の懸命の治療で大事には至らず、2試合欠場しただけで復帰し、復帰した試合では2本の本塁打を放っている。また、同事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折し、投手生命を絶たれる原因となった。, なお、王は1965年4月12日の対中日戦(後楽園球場)で中日の柿本実の長嶋への危険球を発端とする乱闘(この乱闘で金田が柿本に足蹴りを見舞い、退場となっている)でも、乱闘には参加せずベンチで独り手を洗い水を飲んでいたという逸話があるほど争いを好まず、乱闘の口火を切ったのはこのバッキーとの諍いが唯一である。, ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。以後、1970年まで3年連続首位打者を獲得した。いずれも本塁打王との二冠だったが、打点王は3年連続で長嶋に阻まれ、三冠王には届かなかった。しかし1969年、1970年は再び2年連続でMVPに選ばれた。この時点でMVP獲得5回となり、4回の長嶋を上回った。, しかし1971年シーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。打席に立つのが「怖かった」と振り返る程の不振で、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。タイトルは10年連続の本塁打王を守り、打点王も奪還したが、6度目の首位打者となった長嶋にMVPは譲った。, しかし、同年9月15日の対阪神24回戦(甲子園)にて江夏に3連続三振を喫した後、0対2とリードされて迎えた9回表二死二、三塁での第4打席に放った逆転3ランは王にとって756号に匹敵する忘れられない本塁打のひとつだという。江夏が投じたこの打席7球目、試合開始から153球目の内角ベルト付近の速球であった。極度の不振に陥っていた中で打った本塁打だったこともあり、ダイヤモンドを一周する間号泣していた。王が「現役時代に唯一涙を流した本塁打」となった。同対決及び本塁打のことは江夏もよく覚えており、2人とも「このような対決こそが野球の醍醐味」と語っている。この本塁打は王の通算485号であった。また、同年の日本シリーズ第3戦(10月15日、後楽園)9回裏二死一三塁では、当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志のカウント1-1からの3球目内角低めの球を捉え、シリーズの流れを決める逆転サヨナラ3ラン(シリーズ通算21号)を放ち、チームの日本一に貢献。この本塁打についても、「宙に浮くようなフワフワした気持でベースを一周したのは後にも先にもあれだけ」と語っており、通算本塁打にこそ含まれないものの、よく覚えているという。シーズン終了後の12月27日に長嶋に代わり14代目のキャプテンに就任した。, 一方、スランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。しかし32歳の王は頑なに一本足打法を貫いてスランプを脱出し、9月20日には923グラム88センチの圧縮バットでついに公式戦7試合連続本塁打の記録を達成した。9月11日宮本洋二郎から雨中の34号ソロ(後楽園、通算520号)でストリークを開始して、13日先発上田次朗のスライダーを打って35号ソロおよび江夏の直球を打って36号ソロ(後楽園)、14日谷村智啓から雨中の37号2ラン(後楽園)、17日のダブルヘッダーでは第1試合に渋谷幸春から38号ソロ、第2試合に稲葉光雄から39号ソロと土屋紘から40号2ランで、この2試合は6打数4安打4四球(後楽園)、19日はルーキー山本和行のフルカウントでの6球目(試合開始から19球目)のシュートを41号2ラン(甲子園)、20日は村山実の4球目(試合開始から15球目)の真ん中高めのフォークを42号ソロ(甲子園)。これは1986年にランディ・バースに並ばれたが、未だに日本プロ野球記録である。この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を切ったものの、48本塁打と再び大台を突破し、当時の自己最多となる120打点を記録、復活を遂げた。, 1973年、打率.355・51本塁打・114打点で史上3人目、自身初の三冠王を獲得。オフの更改では、年俸額は変わらず報奨金を別途出すことで決着した。それまで長嶋の年俸額を超えて王の年俸を上げることを球団側が認めなかったのである。しかし実質的にボーナス分を含めると王は長嶋を抜き、そして長嶋が引退し王が2年連続三冠王となった1974年のオフの更改では、前年の三冠王ボーナスがそっくり年俸に加算された。同年、通算本塁打数でも野村克也を抜き、プロ野球歴代1位に踊り出た(1973年シーズン終了時・王585本、野村579本)。, 翌1974年も打率.332・49本塁打・107打点で史上初の2年連続三冠王に輝いた。同年8月4日の対阪神戦では、古沢憲司から史上8人目となる通算2000本安打を達成。この頃になると、長嶋が既に現役最晩年で往年の打棒が望めず、他球団の警戒は王に集中していた。これは1973年の124四球(38敬遠)、1974年の158四球(45敬遠)という記録にも表れている。特に1974年は四球と敬遠に加え、出塁数294、長打率.761も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新し、非公式の記録では出塁率.532、OPS1.293、本塁打率7.86、RC2714.9825などもシーズン最高記録であった。これらの記録の内、長打率、本塁打率(現在の記録保持者は共にウラディミール・バレンティン)以外の記録は未だに更新されていない。, しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年には辛うじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれたが王は2年連続でMVPに選ばれた。, 王の通算本塁打が600本を越えた頃から、王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。そのような中での1975年、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、さらには長嶋の引退でさらに王に他球団のマークが集中したことで、打率.285、33本塁打、96打点に終わり、打点王こそ守ったもののこの1冠のみに終わり、13年守り続けた本塁打王の座を阪神の田淵幸一に明け渡すこととなった。この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。引退した長嶋の後継として期待されたデーブ・ジョンソンが大不振で、他の主力選手もそろって不振に陥り、巨人は球団創設以来初の最下位となった。, しかし、記録への挑戦をモチベーションとして、さらに張本勲の加入による「OH砲」の形成とジョンソンの復調で攻撃の負担が軽減され、翌1976年は再び打棒が爆発。64試合で30号に到達、オールスターゲームまでに32本塁打というハイペースで本塁打を量産した。「64試合で30号」は、2001年にアレックス・カブレラがタイ記録を作ったものの、現在も最速記録である。シーズン65試合目の7月3日ナゴヤ球場での対中日15回戦で、2打席連続本塁打を放ち、シーズン32号で通算699号に到達。この試合の6回に一塁にストレートの四球の張本を置いて初先発のルーキー青山久人のフルカウントでの6球目外角高めの直球を'76年初めて左翼へ打って同点698号2ラン、8回には二番手鈴木孝政の1ボールでの2球目のフォークボールを打って逆転の699号2ラン。この試合から日数で20日後、試合数にして7試合目(札幌、後楽園、鹿児島、熊本を経由)、オールスター戦が明けて間もなくの土用の7月23日対大洋16回戦(川崎球場)、8回表の第5打席に鵜沢達雄の初球真ん中高めのフォークを33号2ラン本塁打して、通算2270試合目にして通算700号を達成した。700号を打った川崎球場では、ホームチームでない選手の記録にもかかわらず、スタンドインした付近のフェンスに記念プレートが設置された。, 後楽園球場での広島戦で3打席連続本塁打を放って712号まで到達し(9月30日三輪悟からソロ本塁打2本、10月1日池谷公二郎から2ラン)、その6試合後10月10日の対阪神22回戦(後楽園球場)で古沢憲司から2本塁打(1回の第1打席では1塁に張本勲を置いてカウント1ボールでの2球目外角寄りのシュートを打って「神風が運んだ」46号2ラン、7回の第3打席では午後3時2分に初球真ん中高めのスローカーブを打って右翼の外野指定席442番付近に運ぶ47号ソロ本塁打)して、現役18年目、通算2317試合目にしてベーブ・ルースの714号に並んだ(ルースは2503試合目、アーロンは2965試合目に記録)。翌10月11日は最初の4打席は4四死球でこの日の記録更新は危ぶまれたが、714号の25時間10分後、8回裏第5打席にフルカウントで山本和行が投じた高めのボール球のシュートをこの日の3スイング目で捉え、右翼ポールの金網を直撃する「最短距離で経済的」かつファウルにならずに「儲けた」715号2ラン本塁打(シーズン48号)を放ち(球審: 丸山博)、一気にルースを抜いた。(「」内は王自身のコメント), 10月16日広島での最終戦では、6回表に王はそれまで4安打1失点に抑えていた高橋里志の投じた2ストライク1ボールでの5球目真ん中高めの直球を打って716号2ランで同点にして(午後2時18分)、ジョンソンが高橋のど真ん中のボールを叩いて左翼最上段に決勝26号ソロで勝ち越し(午後2時21分)、さらに河埜和正、加藤初、柴田勲の3連打で加点する逆転劇、守備では加藤初(5イニングを6安打3失点) - 小林繁(4イニングを1安打無失点)のリレーでスコア5-3で逃げ切り、長嶋巨人は前年最下位から優勝を果たし、王は14回目の本塁打王を獲得した。, 新記録の756号まであと40本で迎えた1977年、マスコミやファンの興味が王の「世界新記録」に集まる中、4月2日開幕戦(対中日、後楽園球場、通算2323試合目)の3回裏二死での第2打席に松本幸行の2球目真ん中低めのカーブを打って通算14本目の満塁本塁打を放ち好調なスタートを切ったかに見えたが、その後はなかなか打球が上がらず、4月は打率こそ.350台をキープしていたものの月間わずか4本塁打に終わる。続く5月は極度の不振に陥り、打率ベストテンからも名前が消えるほどになった。本塁打争いも好調なスタートを切った田代富雄、ハル・ブリーデン、山本浩二らに大きく差をつけられ、本人の口からも「アーロンの姿が見えたかと思ったら霞んでいく」と弱気な発言が出るほどだった。, しかし、37歳になった5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打を記録。そして例年最も本塁打を量産していた8月に猛スパート。8月11日には16年連続となる30号(通算746号)を記録し、本塁打王争いでも首位を走っていた山本浩二を遂にとらえる。8月最も本塁打が出なかった期間は、節目かつ新記録へのカウントダウンが現実味を持ちだす750号達成時の9日間で、あとはほとんどコンスタントに本塁打を量産した。8月31日の後楽園球場での対大洋22回戦1回裏1死、午後6時37分40秒、出塁した土井正三を1塁に置いて三浦道男のカウント1ストライク3ボールからの5球目真ん中低めのカーブを打って滞空時間5秒の2ラン本塁打して23秒6、歩数64でダイヤモンドを一周し、現役19年目、通算2425試合目、10145打席目にしてアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を記録(アーロンは23年目、3275試合目に記録)。8月だけで13本塁打の猛チャージをかけた。, その3試合後、14打席目(通算7878打数目)の9月3日対ヤクルトスワローズ23回戦3回裏一死無走者の第2打席で、午後7時10分6秒、フルカウントでの6球目(試合開始から50球目)鈴木康二朗のど真ん中のシンカーを滞空時間4秒でライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。, 756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られるはずとなっていたが、2日間本塁打が出なかったため、その分のカーネーションは無駄となった。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ(くす玉は800号達成時にも用意され割られた)、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。, この試合で、王は両親を後楽園に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあり、球場からは「親孝行も日本一」の声が飛んだ[70]。この試合途中で、長嶋は特にホームランをよく飛ばしたライトスタンドの応援団へのお礼を込めたファンサービスとして、ライトの守備位置に立たせるという計らいを見せた[71]。, 一方、756号を打たれた鈴木は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起し、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続け、その後は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍していた。756号を打たれた投手には「勇気ある投手賞」としてサイパン旅行が送られることになっていたが、鈴木はプロのプライドとしてこれを断っている[72]。, 日本テレビは当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。当時の中継は19時30分からの放映で、記録を決めた19時10分の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!
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